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2020/10号
姫路藩幕末シリーズ(3) 河合惣兵衛墓所と寺町
(姫路市五軒邸〜坂田町〜平野町)
幕末には多くの藩で勤王派(尊王攘夷派)と佐幕派の対立が見られたが、姫路藩の勤王派のリーダーだったのが河合惣兵衛(宗元)。シリーズ(1)で紹介した河合道臣(寸翁)が出た藩家老河合家の一族で、宗門奉行などの要職に就き、文久2年(1862)に藩主酒井忠績(ルビ:ただしげ)が京都所司代の代理を命じられた際、大勢の藩士を率いて上京。京都在任中に、公家の三条実美や長州藩の久坂玄瑞ら勤王派の志士と交流を深めた。この時期、姫路藩でも勤王派による佐幕派の暗殺事件が続いたが、その後藩内では佐幕派が力を持ち直し、元治元年(1864)12月に藩主の命で勤王派の弾圧が行われた。これが「甲子(ルビ:かっし)の獄」で、惣兵衛は自殺刑(自刃)を命じられ、婿養子であった河合伝十郎も斬首刑になっている。この甲子の獄では自殺刑6人、斬首2人、永牢6人を含む70名もの藩士が連座。藩内の勤王派は一掃され、姫路藩は幕府を支える佐幕方として明治維新を迎えるのだった。
この河合惣兵衛と伝十郎の二人の墓があるのが姫路城の南東に位置する坂田町の善導寺。姫路藩主となり、姫路城を築城した池田輝政は、城下町の建設にあたって城の東の外曲輪に寺社地を置き、「寺町」を形成したが、数多くの寺院が軒を並べる「寺町すじ」とも呼ばれる一画に寺はある。
「寺町」は現在の地名でいうと北の五軒邸から南の坂田町、平野町にかけてで、一番北にあるのが正明寺。墓地の一角には勤王派の藩士で、西洋式の大型帆船「速鳥丸」を建造した秋元安民の供養碑も立っている。弟子たちが建立したもので、姫路藩の専売品だった高砂産の竜山石を用いた碑石は風化が激しく、剥落も見られる。
正明寺から南へ妙立寺、妙善寺……と8寺院が並ぶが、正明寺以外は東向きに建てられており、淡いカラー舗装の通りに格調ある漆喰塀が居並ぶ姿はなかなかのもの。しっとりとした落ち着きにあふれ、妙立寺の大きな山門越しに見る姫路城大天守にも味わいがある。「城下町姫路」を実感できる数少ないスポットである。
坂田町に入ると、善導寺があり、境内に河合惣兵衛の墓が立っている。さらに本堂裏手には「河合家総墓」もあり、河合伝十郎も祀られているが、広い境内に鐘楼や本堂が佇む姿にも味わいがある。
善導寺から平野町に入ると境内に池田輝政の供養塔が立つ正法寺があり、そこから南東方向に歩いていくと姫路城の外濠にぶつかるが、濠を南に下った神屋町4丁目の外濠公園に惣兵衛の顕彰碑が立っている。姫路城は内濠、中濠、外濠の三重の濠に囲まれた鉄壁の守りを誇る城だが、中濠、外濠の多くは埋め立てられており、このあたりは三重の濠の存在を実感できる数少ない場所になっている。ぜひ足を延ばしてほしい一画である。
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