メールマガジン

最新の記事

2013/08号

黒田官兵衛ゆかりの地(7) ・ 姫路市本町

(姫路市本町)




〜官兵衛が普請奉行を務めた三層の天守を持つ秀吉の姫路城〜


 天正8年(1580)、三木城を攻略した秀吉に「姫路こそ中国(毛利)攻めの本拠にふさわしい」と、官兵衛が自らの居城である姫路城を差し出したことは前回述べたが、その姫路城がどのような城であったかはよく分かっていない。官兵衛の父職隆が祖父重隆とともに永禄4年(1561)に築いたものだが、御着城の支城に過ぎないということもあり、規模的にはさほどのものではなかったようである。

 その譲られた城地に、秀吉が新たな姫路城を築くのだが、竹中重門(竹中半兵衛の嫡子)が著した『豊鑑』に「石をたたみて山をつつみ、地をうがちて水をたたへ、やぐらどもあまた造りつつけ、天守とかやとて、家を組みあげて高くそびやかし」とあるように、石垣を組み、堀を巡らせ、西国筋では最初となる三層四階の天守を持つ本格的な城郭だった。

 この築城にあたって普請奉行として活躍したのが官兵衛で、後に築城家としても名をなす官兵衛だけに、彼の知略が随所に発揮されたに違いないが、残念ながら秀吉の後に池田輝政が現在の姫路城を築いたため、秀吉時代の遺構はあまり残っていない。

 ただ本丸、二の丸、備前丸、上山里、東の帯郭や井戸郭などの主郭部分は、すでに秀吉の築城時に築かれていたのではないかと考えられており、それを最も顕著に表しているのが石垣(石塁)である。具体的には、菱の門東方土塀下の巨石積石垣や上山里下段、北腰曲輪、西北腰曲輪、乾曲輪の石垣などで、石材の大きさや積み方から見て秀吉時代の古式石垣だと考えられている。

 また、遺構としては、乾小天守北面石垣に残る「姥が石」(秀吉が城の普請に掛かったとき、石垣の石が足りずに困っていたところ、城下で焼餅を売る貧しい老婆が、せめてこれでも役立てて欲しいと石臼を献上。これが呼び水となって人々が競って石を寄進したという)、水の一門のそばに残る「油壁」(古い版築工法で造られた築地塀)、搦手口の最後の関門を固める「との一門」(赤松氏の居城だった姫路城北方の置塩城から移築したものではないかと推測されている城内唯一の総素木造の櫓門)などが秀吉時代のものとされている。

 さらには「に」の門櫓西面に十文字の鬼瓦があり、キリシタンだった官兵衛ゆかりのものではないかという説もあるが、官兵衛が洗礼を受けたのは姫路城を離れた後の天正11年(1583)頃のことで、残念ながら伝説の域を出ない。
ただ、姫路城は「螺旋の迷宮」ともいわれ、縄張りの卓越した巧みさは輝政の力によるものとされるが、その元になったのは官兵衛の知略が生んだ秀吉時代の縄張りでなかったか...。 そう考えると、なおのこと興味深いものがある。

姫路へ行こう!今月の話題はこれ

富栖の里




 富栖の里は、大正〜昭和にかけて栄えた金鉱山、“富栖鉱山”の坑道跡をそのまま利用した“坑道ラドン浴”が楽しめる、日本で唯一の施設です。内部には当時の坑道跡がそのまま残されており、坑道や洞窟の撮影シーンに使えます。

 坑道ラドン浴とは、坑道内に充満したラドンガスを吸う健康法で、海外ではヨーロッパ・オーストリアにある坑道浴が知られています。坑道浴の後は、“渓谷の天然水100%”のお風呂もセットでお楽しめます。

 また、“麦とろセット”を始めとするおいしくて健康的なお食事もございます。 渓谷のせせらぎと山の緑に囲まれた、ここにしかない空間での“癒し”を是非ご体験下さい。

【場  所】 〒671-2415 姫路市安富町皆河字大河550-139
【時  間】 10:00〜17:00
【料  金】 基本コース(終日利用可)  3,000円
       初回体験コース(所要約1.5時間) 2,000円 
【お問合せ】 富栖の里 TEL 0790-66-4750 FAX 0790-66-4751

前のページへ戻る

新着動画

Copyright(C) Himeji Film Commission. All Rights Reserved.