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2013/05号

黒田官兵衛ゆかりの地(4) ・ 姫路市飾磨区中浜町ほか

(姫路市飾磨区中浜町ほか)




〜毛利と織田の対立の中で2度にわたって戦場となった英賀城下〜


 先月号では永禄12年(1569)に官兵衛が龍野城主赤松政秀を打ち破った青山の合戦場跡を紹介したが、その7年後の天正4年にも、官兵衛は英賀城下の英賀ノ浦(飾磨区中浜町)に上陸した毛利勢5千の大軍を打ち破っている。

 その前年、織田につくか毛利につくかで迷う主君の小寺政職に「織田につくべし」と説得した官兵衛は、自ら使いに立って信長と会い、小寺氏一統が毛利攻めを先導することを約束。それを知った毛利氏が、小寺氏を討つべく軍船を仕立てて攻め寄せてきたもので、これに対して官兵衛は近隣の百姓を動員して背後に大軍がいると見せかけ、わずか5百の兵で毛利勢を追い払い、信長から感状を与えられた。

 その毛利勢が上陸したとされるのが、英賀城下の港があったという田井ヶ浜(飾磨区中浜町)。一帯は今では埋め立てられて住宅地になっており、ここに海岸が広がり、港があったとは想像もできないが、山陽電鉄の飾磨西〜夢前川駅間の高架北側の小公園に「水城英賀城の港跡・巽地蔵」の碑が立っている。

 話が前後するが、英賀城は夢前川の河口付近で勢力を誇った三木氏の居城で、英賀には信長と対立する浄土真宗本願寺門徒の拠点である英賀御堂(英賀本徳寺)があり、三木氏は門徒らとともに信長の命を受けて播磨入りした羽柴秀吉の大軍と対決。東を水尾川、西を夢前川、南を播磨灘に囲まれ、北側には低湿地が続くという水城の立地を生かして奮戦するが、内部から裏切りが出て天正8年(1580)4月、遂に落城した。

 現在、本丸跡があった中浜町に「英賀城本丸之跡」の碑が、英賀東町の英賀薬師境内に城主三木家の墓所が、英賀宮町の英賀神社に官兵衛を主人公にした司馬遼太郎の『播磨灘物語』の文学碑があり、英賀薬師と英賀神社の境内に土塁の一部が残るが、英賀城の栄華や戦の面影を偲ばせるものは何も残っていない。英賀衆の心の拠り所だった英賀御堂の遺構も夢前川の川底に沈んでしまっており、「英賀本徳寺趾」の碑だけが川東の明蓮寺に残っている。

 官兵衛ゆかりの地といいながら、映像的に引き出せる場所はそう多くないが、市街地にありながら森閑と静まり返った英賀神社の古色を帯びた佇まいや、城の本丸・二の丸があった中浜町の随所に残る古い家並みにはそれなりの魅力があり、訪れてみる価値はある。

姫路へ行こう!今月の話題はこれ

官兵衛と二十四騎の黒田武士特別展



 姫路城西の丸長局では、5月31日(金)まで「官兵衛と二十四騎の黒田武士特別展」を開催しています。黒田二十四騎は、黒田家草創期を支えた精鋭24人で、その大半が姫路や播磨の出身。この特別展では官兵衛と黒田二十四騎の兜(複製)を展示しているほか、官兵衛ゆかりの地や、歴史年表もパネルで紹介しています。姫路城とあわせてぜひお越しください。

【開催期間】5月31日(金)まで
【開催場所】姫路城 西の丸長局(百麑廊下内)
【内   容】黒田二十四騎の兜(複製)を展示、パネル展示(官兵衛ゆかりの地、歴史年表)
※10時〜12時、13時〜15時にはガイドによる案内有り
【お問合せ】姫路市観光交流推進室 電話:079-287-3652

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