書寫山圓教寺の主な見どころをご紹介
境内の主要な寺院について歴史・文化財の視点で紹介するとともに、動画では普段公開していない場所も紹介。
【圓教寺境内】
圓教寺は兵庫県中央部に位置する書寫山にある。
数十の歴史的建造物、記念碑、墓地、本堂と6つの塔頭は、31ヘクタールを超える地域に存在している。
性空上人(910–1007)によって966年に創建されて以来、圓教寺は裕福な貴族や皇室からの庇護を受けてきた。有力武将や一般庶民もまた寺院の多くの建物や芸術作品の制作に貢献した。これらの多くは室町時代(1336〜1573)に作られ、文化財に登録されている。
この寺院の構造は3つの主要な部分に分けることができる。中心には、摩尼殿がある。
この建物は、開祖性空上人が山に住んでいた初めのころに、桜の木の周りで踊り、偈文を詠じている天女の姿を目撃したと
言われている場所に建っている。
奇跡的な偈文の内容に触発されて、性空上人は桜の木に、宝石を身に着けた「生命のある」如意輪観音菩薩像を彫ったのである。
このアイコンは火事で失われ、摩尼殿は何度か再建されたが、象徴的・宗教的な意義を現在も保っている。
「西国三十三箇所」の巡礼地の第27番目のお札所である。8世紀に確立されたこの巡礼路は、日本全土および世界中からの参拝者を招き続けている。
圓教寺の主要部分の一つには、大講堂、食堂、常行堂からなる三つの堂が集まっている。
10世紀から15世紀に作られた三つの優雅な建物は広い中庭を中心にしてUの形を成している。
大講堂に収められている釈迦三尊像は、987年に性空上人の弟子、感阿上人によって彫られた。
この三尊像は、高い台座の上から中庭を横切って常行堂の舞台を静かに見つめている。
境内の西端にある建物群は、圓教寺の聖域・奥之院で、開山堂(1673年創建)・不動堂(1697年創建)・乙天と若天の護法堂が祀られている。
この乙天と若天の二人組は、創建以来、圓教寺をお護りしており、今日まで続く寺院の伝承と伝統になっている。
昔から、圓教寺への訪問者は6つの狭いハイキングコースの1つを経由して書寫山に登らなければ寺院の境内に到達できなかった。
1958年にロープウェイが東ルートに沿って開通し、寺院へのアクセスが楽になった。
参拝者はロープウェイで山頂に着いたら、俗世と聖域の境をなしている仁王門を経て、寺院の境内に入ることができる。
START!
- 1.
圓教寺摩尼殿 (如意輪堂)
摩尼殿は圓教寺の中心部に位置している。
圓教寺の開祖性空上人(910–1007)が偈文を唱えているとき、一本の桜の木の周りを舞う天女を目撃したと言われている。
天女の詩は、6本の腕の如意輪観音(サンスクリット語:チインタ・マニ・チャクラ)という慈悲の菩薩が生きている木の姿で出現する様子を描写していた。
偈文によると、如意輪観音は長寿と繁栄の菩薩であり、いつの時代にもすべての生き物が極楽に生まれ変わることができると
保証している。
この理想に触発されて、性空上人は桜の木に如意輪観音のお姿を彫刻し、それをお守りするために仮のお堂を建てた。
その後、970年にお堂と如意輪観音を中心にして如意輪堂が建設された。このお堂は、1174年に後白河法皇 (1127–1192)が圓教寺を訪れ、像を見たいと要求するまで閉ざされたままで、如意輪観音像は公開されていなかったと伝えられている。後白河法皇が如意輪観音像をご覧になったとき、このお堂を現在の名である「摩尼殿」とお名づけになった。摩尼は、仏教の教えの中心にある宝石(サンスクリット語:マニ)を意味している。
摩尼殿は4回再建されたが、毎回建物は、桜が立っていた場所に建てられた。摩尼殿の内側には、祭壇の後ろの壁に厚い漆塗りの扉が3組ある。これらは、四天王像が安置されている部屋である (※四天王像は大講堂へうつりました)。年一回、1月18日にこの扉が開かれる。この日、圓教寺は新年の平和と五穀豊穣の祭典 (修正会)を執り行う。
- 2.
三つの堂(大講堂・食堂・常行堂)
圓教寺の三つの堂は、この寺院の豊かな歴史の象徴、その宗教的修行の場、そして千年以上に渡ってここを使用してきた各時代の僧侶たちの日常生活の場として君臨している。
大講堂は、三つの堂の北端にある。それは白い小石の広い中庭を挟んで常行堂(常行三昧修行のお堂)に面している。
中央の2階建ての食堂は、三つの堂の西端を構成する長い回廊のように見える。
10世紀から15世紀の間に建てられた三つの堂の各建物は、寺院での生活において重要な役割を果たしている。
大講堂は、講義や議論が行われる修行の場である。天台宗の寺院に共通する建築様式で、その中心は、内陣を土間としている。
このお堂のご本尊は歴史的な釈迦牟尼仏で、知恵の菩薩である文殊菩薩(右)と正しい行いの菩薩である普賢菩薩(左)の
二菩薩を両脇に従えている。
金色に輝く三尊像が穏やかに中庭を横切り、常行堂の前の舞台を眺めている。年に数回、その舞台で舞楽が奉納されている。
常行堂は、宗教的な祈りの場として特徴付けられている。僧侶たちは折々、常行三昧と呼ばれる瞑想的な修行を行う。
僧侶たちは、お堂の中心の大きな阿弥陀仏の周りを、お経を唱えながら、ゆっくりと歩くのである。
場合によっては、この修行は食べ物と休憩のための短い休みだけで90日も連続して行われる。
このような困難な修行は、非常に困難であるばかりでなく、危険を伴う可能性があり、常行三昧を圓教寺の僧侶が行うことは
稀である。
食堂は歴史的には、僧侶が食事をしたり寝たりする場所として使用されていた。
1174年に後白河法皇(1127年〜1192年)の勅願により創建されたが、1963年まで未完成であった。
現在、1階は主に訪問者が功徳を積むための写経の場として利用されている。
食堂の2階には、圓教寺の長く豊かな歴史に光を当てるさまざまな宗教的および文化的遺産が展示されている。
中庭の周りの建物とそのU字型の配置という優れた条件により、三つの堂はテレビや映画の撮影に好ましい場所となっている。
この三つの堂はいくつかの人気のある時代劇に登場しており、トム・クルーズと渡辺謙主演の大ヒット映画 『ラストサムライ』(2003)で話題になった。
三つの堂はすべて国の重要文化財に登録されている。
- 3.
圓教寺大講堂
大講堂は、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の最北端に存在している。
名前が示すように、このお堂は講義の場所であり、圓教寺の境内の中で最も重要な建物の1つと考えられている。
元の建物は10世紀に、花山法皇(968–1008)の命によって建てられたが、現在の2階建ての建物の歴史は15世紀にまで遡る。
その大陸と日本の折衷様式の建築デザインは、天台宗の特徴を備えている。
たとえば、お堂の御本尊であり、歴史ある釈迦牟尼仏の像は、凹んだ中央の空間に収められている。
像は中央が先細りになっている蓮台に鎮座している。
その形は、物理的、形而上学的、および精神的な宇宙の中心を表す、仏教の宇宙論における神聖な5つの山からなる須弥山を
表している。
釈迦牟尼は、教えを説く行為を表すポーズを取って立っている似通った二体の仏像に両側を囲まれている。
金色に輝く三尊像は、その高い位置から、三つの堂のうちの一つである常行堂の前の舞台がある中庭をお眺めになっている。
年に数回、大講堂に祀られている仏様を祀るために舞楽が奉納される。これら2つの建物が南北に分かれて向かい合う形式から、三つの堂が綿密な計画を基に建てられたことがわかる。
大講堂と各像は、国の重要文化財である。
- 4.
圓教寺食堂
食堂は大講堂と常行堂と繋がっており、圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の西側を形成している。
歴史的に、食堂は僧侶が修行し、寝て、食事をする居住空間であった。
この場所の最初の建物の建設は、後白河法皇(1127–1192)の勅願により1174年に始まった。
いくつかの自然災害により、元の建物やその後に建てられた建物も倒壊した。
現在の建物は15世紀半ばに着工されたが、日本最大の2階建て建築で、その規模が大きく複雑であることが理由で完成が遅れた。
結局、食堂は約5世紀にわたって未完成のままであった。
その2階部分は大規模なリノベーション計画の一環として1963年に完成した。
その長い建設過程により、いくつかの建築上の手違いが生じた。
たとえば、2階の南東角の屋根は常行堂の屋根にぶつかっており、これは2階の露台からはっきりと見える。
現在、食堂の1階は訪問者が功徳を積む修行の写経を行う場所として主に利用されている。
2階には、圓教寺の長く豊かな歴史に光を当てた数多くの宗教的および文化的な遺産が展示されている。
その中には、14世紀に製作され、悟りへの揺るぎない願いを象徴する金剛薩埵(サンスクリット語:ヴァジュラサットヴァ)像がある。
食堂は国の重要文化財、金剛薩埵像は兵庫県の重要文化財である。
- 5.
圓教寺常行堂
圓教寺の三つの堂として知られる三つの建物の南側に位置する常行堂は、無量光仏である金色の阿弥陀如来を祀っている。
この建物の特筆すべき特徴は神聖な舞楽やその他の奉納に使用される前方の舞台である。
現在の建物は室町時代(1336–1573)にさかのぼる。
お堂の名前が示すように、ここは僧侶たちが歴史的に阿弥陀像の周りを阿弥陀経を唱えながら歩き続ける瞑想的な修行を
行っている場所である。
時に、この修業は食事と短い休憩だけで90日もの間続く。
阿弥陀如来像はクラシックな瞑想する姿勢で描かれており、二重の蓮の花の上で胡坐を組んでお座りになっている。
目は半分お閉じになり、手は穏やかに熟考を示す禅定印を保たれている。
細長い耳たぶ、頭頂部の肉髻および螺髪は、仏像で頻繁にみられる図像的工夫であり、慈悲、知恵、および悟りを表している。
阿弥陀様は金色の後光で描かれている。
光輪は、阿弥陀様とその傍らに描かれることが多い慈悲と智慧の菩薩の「種音節」である3つのサンスクリット文字で
飾られている。
木造の背景には、阿弥陀とともに浄土の極楽浄土から紫雲に乗って降りてきて、衆生を救いに導く25体の菩薩が描かれている。
阿弥陀如来像も常行堂の建物も国の重要文化財である。
- 6.
開山堂
開山堂は、圓教寺の境内の中で最も重要な建物である奥之院の中にある。
お堂は開祖性空上人が入寂された1007年に、上人の御骨を祀るために建てられた。
勤行はここで千年以上に渡って毎日行われている。
現在の建物は1673年に建立され、江戸時代(1603〜1867)の寺院建築の代表的な例である。
屋根を支える組み合わされた腕木は、有名な彫刻家左甚五郎(1624–1644)によって彫刻された三体の神話上の守護神
(金剛力士)を含む、さまざまな精巧な彫刻で飾られている。
伝説によると、もともとは建物の四隅のそれぞれにひさしを支える神話上の守護者が1体ずついたが、四体のうちの一体は巨大な重量を支えることができず逃げ出し、今日見られるのは残った三体だけである。
天台宗の寺院に共通する建築様式に従って、お堂の中心は土間床になっている。
主要な祭壇は、どっしりとした漆塗りの扉と複雑な屋根を持つ大きな厨子を支えている。
お堂の格天井は、御聖櫃の上の部分が高くなっており、性空上人の高貴な地位を表す象徴的な役目を担っている。
遺骨箱は、等身大の性空上人像の中に収められている。
彫像が2008年にレントゲン撮影されたとき、研究者たちはこの像の頭部に性空上人自身のものだと考えられているお骨が
納められていることを発見した。
開山堂は国の重要文化財である。
- 7.
不動堂
奥の院の入り口近くの小高くなった石の台座の上にあるこの小さな建物は不動堂である。
建物の外観は簡素であるが、祀られている像は宗教的に非常に重要である。
その中で重要なのは、5人の「知恵の王」の1人である不動明王(サンスクリット語:アカラ)の像である。
不動明王の憤怒の形相と剥き出しになった牙は、無限の思いやりを持つというその評判とは全く対照的な印象を与える。
不動明王は日本の密教である天台宗と真言宗の中で深く崇拝されている。
彼は、業(カルマ)の妨害と汚れを焼き払うことで信者を守る強い神であると言われている。
典型的に、その姿は、右手に直刀を握りしめ、左手に縄を持っている。
不動明王の重要な役割は仏陀の戦士としてカルマを取り除くことである。
不動明王はしばしば固い岩の上に座り、炎に包まれた姿で描かれている。
圓教寺は、寺院の守護神である乙天や若天とのつながりを通じて、不動明王と特に強いつながりがある。
乙天は不動明王の化身であると考えられており、若天とともに毎年1月18日に行われる平和と五穀豊穣を願う寺院の行事でも有名である。
乙天と若天は不動堂に隣接する小さな神社の護法堂に祀られている。
不動堂は1678年に建てられたが、1967年に倒壊した。その10年後、元の材料の一部を使用して再建された。
- 8.
護法堂
奥の院に並んでいる2つの護法堂は、圓教寺の守護神である乙天と若天を祀っている。
乙天は智慧の神である不動明王の化身であり、若天は地上の宝の守護神である毘沙門天(Sanskrit語:ヴァイシャラヴァナ)の
化身である。
仏教の教えの獰猛な守護神として知られている二人は、性空上人(910–1007)が966年に圓教寺を建立し、性空上人が書寫山で
修行を始めたときにそれを助けたと考えられている。
乙天、若天は当初から圓教寺の守護神として、今日に至るまで寺院の伝承と伝統の中で重要な役割を果たしてきた。
圓教寺の年間行事で最も重要なのは、1月18日に行われる平和と五穀豊穣を願う祭典(修正会)である。
この特別な日には、緑の神である乙天と、赤の神である若天を表す仮面を被った信者たちが寺院の敷地内を乱舞し、松明を振って鐘を鳴らす。
乙天、若天はこの2つのお堂の中に安置されている。右側が乙天、左側が若天である。
厳密に言えば、これら2つの建造物は、神々を収容する建物である「本殿」と見なされる。
一般的に、本殿の前に付属する「拝殿」がある。そこは参詣者がお供えをしたり、神々への祭祀を行う場所である。
しかし、ここでは、拝殿は切り離され、中庭を挟んでこれら2つの本殿に面している。
- 9.
護法堂拝殿
この長方形の拝殿は、圓教寺の奥の院の反対側にある中庭を横切って立つ護法堂に祀られている2柱の神々と密接に
関連している。
2つの護法堂の拝殿としての役割に加え、この建物は儀式や隣接する開山堂を訪れる巡礼者にも利用されている。
1589年に建てられたこの建物は寺社建築の様式を融合させたもので、寺伝によると、かつては12世紀の伝説的僧兵であり、
7歳から10歳まで書寫山で修行を行った武蔵坊弁慶(1155–1189)の学問所であったという。
弁慶が使用したとされる実際の机は、寺の食堂の2階に展示されている。
日本の神社は、一般的に「本殿」と「拝殿」の2つの建築物で構成されている。
護法堂の場合、本殿の代わりに、セットで護法堂と呼ばれる2つの建物がある。
これらの建物には、圓教寺の守護神である乙天と若天が祀られている。
拝殿の場所も一般的なそれとは異なり、中庭の向こう側にあり、護法堂の前面に付属しているのではなく、完全に独立している。
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その他
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※当ページに掲載されている動画「01摩尼殿」「02大講堂」「03食堂」「04常行堂」「05開山堂」は文化庁の
文化財多言語解説整備事業で作成したものです。
また、説明文については、観光庁令和2年度地域観光資源の多言語解説整備支援事業によって作成したものです。
下記解説文も是非ご覧ください。
書寫山圓教寺の各所解説文① | 特集 | ひめのみち (himeji-kanko.jp)
書寫山圓教寺の各所解説文② | 特集 | ひめのみち (himeji-kanko.jp)
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