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【ディープな姫路城】4月号「本多忠政、姫路城を改造する③」

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第12回目となる4月号では、「本多忠政、姫路城を改造する③」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

本多忠政、姫路城を改造する③

これまで本多忠政による城中核部分の大規模改修についてみてきました。今回はその最たるものを紹介します。


さて、3月号では中堀の城門について、池田時代の平虎口から本多時代の枡形門への改修を指摘しました。それに関連して、埋 (うずみ)門とその周囲に注目してみましょう。

 

 

《図1》「姫路御城廻侍屋鋪新絵図」部分

 

 

埋門は池田時代には無く、本多時代に築かれたとみられます。枡形門として築かれましたが、忘れてならないのが中堀に土橋を架けたことです。土橋は木橋と異なり、水堀の水位調節機能を備えています。図1のように南部中堀では惣社門から埋門まで土橋なので、これによって南部中堀では水がうまく溜まるようになったようです。

 


では、土橋が無ければ水が溜まらないのはなぜなのでしょうか。それは堀に勾配があるため、自然に流下するからです。ある程度の水深を必要とする堀では、水が溜まってもらわないと困ります。江戸初期の中堀沿いの町屋域の正確な地形は不明ですが、大正年間の南部外堀堀底と現在の標高から、全体的に惣社門あたりから西に向かって低くなっていたことが想定できます。また、綿 (わた)町中央の↓のところに「御用水」と呼ばれた中堀から南部外堀への南北の水路 (現在はおみぞ〈小溝〉筋商店街)があったことから、惣社門と中ノ門の間では中央部が低くなっていたとみられます。こうした高低差を考慮して、城門の土橋に堰としての機能を持たせたのでしょう。その証左として図2を挙げておきます。この図は埋門跡の調査平面図で、薄緑の部分が土橋跡から出土した石組暗渠です。つまり、暗渠底面の高さまで水が溜まり、それ以上溜まるとオーバーフロー した堀水が暗渠を通って西側に流下しました。

 

 

 《図2》埋門遺構図

 

《図3》「姫路侍屋敷図」部分

 

《写真1》西部中堀現況 (市ノ橋門跡から北を見る)

 

《写真2》西部中堀現況 (南勢隠門裏辺り)

 

 

こうした埋門の築造は、城の西を流れる船場川の改修とリンクするものでした。池田時代、城の西に接して妹背川が流れていました。これは城を守る堀の役割もあったのでしょう。その妹背川を城と飾磨津を結ぶ船路に改修したのが本多忠政で、以来、船場川と言われようになりました。改修では、川と城石垣の間に新たに堀を設け、川の流水が直接石垣を洗うことがないようになりました。また、新しい堀は川よりも少し水位が高く、車門や市ノ橋門も外枡形にして、枡形の石垣が堰となり水を溜めることができるようになり(図3と写真1の手前の石垣)、この結果、城の西側は二重堀となりました。写真1と2は船場川沿いの現況ですが、堀・川の改修と長大な石垣の存在から、忠政が姫路城西側の防御にいかに腐心したかを感じられるでしょう。

 

 

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