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【ディープな姫路城】3月号「本多忠政、姫路城を改造する②」

  • 「池田家姫路城内侍屋敷図」部分

    「池田家姫路城内侍屋敷図」部分

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第11回目となる3月号では、「本多忠政、姫路城を改造する②」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

本多忠政、姫路城を改造する②

本多忠政が池田家から姫路城主を引き継いだのが、元和3年 (1617)でした。翌年には5月15日付で幕府の老中から忠政家中に西の丸石垣とその石垣上に乗る多門櫓の増築許可が出されていますので、姫路入封後まもなく西の丸増改築の計画が進められたとみられます。その理由は、2月号で紹介したように嫡男忠刻の屋敷を築く必要があったからでしょうが、同時に千姫の屋敷も三の丸の大手門内に新たに築かれましたし、忠政の屋敷も三の丸高台に築かれましたから、本多家の姫路転封が契機となり、城中核部分の大規模改修が進められたことになります。

 

このときの改修の対象となったのは、三の丸と西の丸以外にどんなところがあったのでしょうか。それを今回は紹介します。

 


姫路城を観光で訪れる人の中には、JR姫路駅から天守を目標に大手前通りをまっすぐに歩いて来られます。途中、国道2号線を横断しますが、その道路敷がかつての中堀になります。中堀で区切られた内側のエリアが中曲輪で、侍屋敷地が広がっていました。その外側がいわゆる城下町になり、中堀が侍と町人の居住区を分離する境界だったのです。それは有事の際には重要な城の防御ラインになることも意味します。ただ、通常はその間を通行できるよういくつか城門を設置していました。それも重要な防御ラインを構成する施設になるので、有事に備えた相応の機能が不可欠です。そこで採用されたのが外枡形の城門でした。

 

 

《写真1》鵰門跡 (東から)

 

《写真2》埋門跡の枡形 (櫓台から)

 

 

現状では、まず大手前通りと国道の交差点のすぐ西側に残っているのが中ノ門跡の石垣です。ここは城門がほとんど破壊されています。そこから国道沿いに西へ約300メートル進むと、鵰 (くまたか)門跡があります (写真1)。さらに西へ200メートル進むと埋 (うずめ)門跡があります (写真2)。いずれも建物は皆無ですが、枡形を構成した石垣が残っています。

 

 

《図1》「池田家姫路城内侍屋敷図」部分

 

 

図1は池田利隆時代の姫路城下図の写本で、該当部分を見ると、石垣も枡形もなく、単純な平虎口となっているのがわかります。埋門に至っては、そもそも虎口さえありませんでした。

 

 

《図2》「姫路御城廻侍屋鋪新絵図」部分

 

 

同じエリアを第一次榊原時代 (慶安2〈1649〉年~寛文7〈1667〉年)の絵図 (図2)で見てみましょう。中堀沿いに並んだ3つの城門はすべて石垣を採用した外枡形となっているのがわかります。

 

 

このことから、池田利隆のあと第1次榊原までの間に枡形に改修されたとみてよいでしょう。埋門跡の発掘調査では、内門跡の前面 (南側)から堀を埋めた埋土が見つかっています。調査者は堀の埋立てと埋門の築造が慶長9年頃、つまり池田時代には始まっていたことを示唆しますが、少なくとも池田利隆段階の絵図では埋門が無いことは注意すべきです。利隆が城主だったのは慶長18年 (1613)から元和2年 (1616)の短期間で、かつその間に大坂の両陣があったため、姫路城の改修が後手になっていた可能性もあるからです。やはり、西の丸や三の丸の造成とリンクした改修とみるべきで、姫路藩が25万石に減じたことがこうした改修の要因になったのでしょう。

 

 

 

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