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【ディープな姫路城】2月号「本多忠政、姫路城を改造する①」

  • 西の丸全景

    西の丸全景

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第10回目となる2月号では、「本多忠政、姫路城を改造する①」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

本多忠政、姫路城を改造する①

姫路城の有料エリアを見学するとき、菱の門をくぐると城のアテンドに左手に誘われることがあります。西の丸から天守への一般観光ルートを案内してくれているのです。それに従って進むと、おおよそ1時間半を要します。そのためか、正面 (いノ門)方向からの順路を選ぶ観覧者も多いのですが、せっかくなのでやはり西の丸も見学して欲しいところです。そこで今回は、西の丸について紹介します。

 

元和3年 (1617)、池田光政にかわり本多忠政が姫路城主となりました。彼は伊勢国桑名での10万石に15万石を加増され、合わせて25万石となっての姫路転封でした。加増分のうち10万石とは忠政の嫡男忠刻の持高で、父子合わせて25万石を与えられたとみることもできます。しかし、忠刻は独立した大名になったわけではないのに、10万石とはどういうことなのでしょうか。実は、元和2年に忠刻が千姫と結婚したことで、千姫の化粧料 (将軍の娘や養女の婚姻の際に与えられる所領)10万石が忠刻分と見なされた、ということもできます。もし仮に10万石が千姫の化粧料だったとしても、その大きさはふつうではなく、徳川家が本多家との関係を重視していた表れともいえるのではないでしょうか。いずれにせよ、15万石から25万石に加増となった本多忠政は、大いに“出世”したことになるでしょう。

 

とはいえ、前代の池田家にくらべると数字的には見劣りします。池田輝政は播磨一国52万石、息子の忠継が備前28万石、忠雄が淡路6万石、弟の長吉が因幡国内で6万石、一族であわせて92万石を領有していた時期があったほどです。一方、忠政は播磨国内で25万石、息子の政朝が龍野5万石、娘婿の小笠原忠真が明石10万石、あわせて40万石となりました。池田に比べると表高は減少、その領域も播磨国内に収斂されることとなりましたが、安宅船が本多家に預けられて飾万津の軍港化が進み、さらに将軍の命で忠政による明石城の新規築城が行われるなど、瀬戸内海東部沿岸における姫路藩の存在感は前代と何ら変わることがありませんでした。それどころか、本拠である姫路城の改修を大いに進めたのです。

 

このときの主な改修のポイントは、城の防御機能を高める点にあったといえます。その一つが西の丸の増改築です。

 

 

 

《写真1》掘削されず土台として残る岩盤

 

 

《写真2》西の丸全景 (「天空の白鷺」より)

 

 

姫路城の特徴の一つは、城の中核部分を2つの峰を利用して造成している点です。天守群は姫山、西の丸は鷺山の独立丘を利用してそれぞれ築かれました。西の丸増築では、まず鷺山の頂部付近を掘削し (写真1)、その排出土で南斜面を埋めて広い曲輪面積を造成しました (写真2)。このときの工事量を試算するために、掘削した土砂で埋め立てた範囲を模式的に図示しました (図1)。これをもとに土量を計算すると、

73.5×73.5×16.5÷2=44568.6㎥

となり、約45000㎥の土量が推定されます。では、この土量の掘削にどれほどの労力が必要だったのでしょうか。江戸時代の記録がないので、近代の工事記録を援用して試算してみましょう。 

 

 

 

《図1》西の丸南部造成模式図

 

 

近代の姫路市では市の人口増に上水供給が追いつきませんでした。その対応策の一つとして、昭和2年 (1927)、男山に配水池を建設するため山頂部を標高59mから52mに切り崩しました。排出土量が8232㎥で、7月16日から12月15日 (5カ月間)の期間にのべ7,684人の人足が工事に従事しました。土量基準では、男山は西の丸の約1/5の工事量なので、西の丸ではのべ約41,000人と25カ月の時間がかかったことになります。人足の1日の出面でいえば50人程度です。もちろん、この土木工事のほかに石垣の構築、その上に乗る多門櫓と御殿の建築工事があったので、期間にもよりますが、もっと多くの人足が従事したことでしょう。

 

 

《写真3》男山 (文学館)からみた百間廊下と天守

 

《図2》西の丸と三の丸高台の位置 (「姫路侍屋敷図」部分)

 

 

ではなぜ、西の丸の増改築を必要としたのでしょうか。一つには忠刻の屋敷を築く必要が生じたことでしょう。西の丸が千姫の化粧料で築かれたという話は、このあたりが起源ではないでしょうか。もう少し別の視点でみると、忠政の25万石は池田輝政に比べて約半分となり、単純に考えれば本多家の兵力も半分ということですから、少数の兵力で姫路城の防御ができるようにする目的だった可能性があります。男山と景福寺山が西に近接していることが姫路城にとってのウィークポイント (敵の砲撃の橋頭堡になる)なので、それを解消する必要があったと想定するからです。西の丸西側の縁辺部に長大な多門櫓と石垣を巡らせ (写真3)、同様に忠政屋敷のあった三の丸高台 (図2の「御居城」)も多門櫓を、それも二階建てで巡らせている厳重さは、その証左になるのではないでしょうか。ですから、「百間廊下の長い廊下を歩くのは疲れるし退屈だ」なんて言いながらボーっと見学するのは、もったいないことなのです。

 

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