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【ディープな姫路城】1月号「シン・太鼓櫓」

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第9回目となる1月号では、「シン・太鼓櫓」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

シン・太鼓櫓

姫路城には多くの建物が残っています。それぞれには名称があり、内曲輪の城門でいえば、いノ門、ろノ門、はノ門というように伊呂波の順になっていて、機械的に名が付けられています。これは櫓の場合でも基本的には同様で、建物の棟数が多い内曲輪ならではの事情だったのでしょう。とはいえ、もちろん例外はあります。

 

櫓は矢倉とも書きました。もともとは矢を射る場所の意味だそうですが、中近世になると文字通り倉としても実質的に機能をしました。そのため、その建物の中にある物資や設備の名前で呼ばれることもありました。姫路城に現存する事例では、塩櫓や井戸櫓、太鼓櫓があります。

 

 

《写真1》へノ櫓 (現・太鼓櫓)とりノ門

 

《写真2》へノ櫓 (北東から)

 

 

太鼓櫓は、その名の通り櫓内に太鼓があったことに由来する名称です。現在の姫路城の太鼓櫓は平櫓で、りノ門のすぐ横に接して建っています (写真1・2)。ところが、酒井家の家臣福本勇次が記した『村翁夜話集』所収の「御天守段階子数并間数」を見ると、りノ門の横にあるのは「へノ御櫓」と記されていて、それも平屋構造であることがわかります。このことから、少なくとも酒井時代にはへノ櫓という名称で、太鼓櫓という名称ではなかったことが明らかです。さらに同書によれば、桐門の東に「三重太鼓御櫓」が接続していると記されていますので、本来の太鼓櫓とは、桐門すなわち現在の大手門脇に建っていた三重櫓のことなのです (図1)。では、どうしてこのような齟齬が生まれたのでしょうか。

 

 

《図1》大手門と太鼓櫓 (「大工幾蔵図」)

 

《写真3》太鼓櫓の櫓台跡の調査 (北から)

 

 

明治時代になって、多くの城郭建築が老朽化や不要を理由に破却されていきました。姫路城も例外ではなく、陸軍の姫路営所が三の丸跡に設置されることになると、御殿や大手門をはじめとする建物群が解体・撤去され、かわって病院や兵舎が建てられました。本来の太鼓櫓もこのとき撤去されたとみられ (写真3)、その際、櫓内にあった太鼓は破棄せず、へノ櫓に移動させたので櫓名も移ったと言われています。

 

そもそも太鼓櫓とは、時報を知らせるために打ち鳴らす太鼓を設置した櫓でした。太鼓のほかに、肝心の時刻を知るための時計もあったとみられますが、はっきりしません。この手の櫓はほかの城郭にもあって、姫路近辺では明石城の大手門に相当する太鼓門の櫓部が、それに相当するでしょう。姫路城では、24時間、城下の人々に時刻を知らせるために交替勤務で太鼓坊主が担当していました。すぐ横の大手門の番人が24時間3交替勤務ですから太鼓坊主も似たような勤務だったのでしょうが、坊主は現代で言う“ワンオペ”状態で、深夜勤務でも配慮はありませんでした。たまたま夜間に太鼓櫓での坊主の勤務状態を見分した藩主が「夜分に一人では寂しかろう」と言って、それ以後二人勤務にしたという逸話もあります。

 

現在、姫路市立城郭研究室では、三の丸にあった御殿群復原の可能性を模索しています。実現ためにはとくに御殿の外観を撮影した古い写真が不可欠で、その情報提供を広く呼びかけてきました。すると、酒井家家臣のご子孫から大手の桜門の写る古写真があるとの情報提供がありました。それが写真4で、桜門の左に写る三重櫓こそ、真の太鼓櫓の姿だったのです。

 

 

 

《写真4》三重櫓が太鼓櫓、右に桜門 (塩澤秀陽氏蔵)

 

 

引き続き、御殿に関する情報提供を受け付けています。些細なことでも新知見が含まれていることがありますので、情報をお寄せいただければ幸いです。

 

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