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【ディープな姫路城】12月号「姫路城の堀が守るもの」

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第8回目となる12月号では、「姫路城の堀が守るもの」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

姫路城の堀が守るもの

元号が平成になってまだ間もないころ、西日本を中心に渇水になったことがありました。愛媛県松山市では、公共のトイレでは水洗が使えず、床に置かれた水を貯めた桶やバケツから柄杓で水をすくって便器へ流す経験をしました。これと同時期かは不確かながら、姫路でも夜間断水や水冷式の冷房が使用できず市民生活に影響がでて、「早く神谷 (こたに)ダムが出来ていれば」とか「桜山の水は使えないのか」という話を聞いた覚えがあります。貯水用のダムが各地に設けられている現代でさえ、気象状況よって、これほどの渇水になってしまいます。江戸時代ともなれば、なおさらであろうことは容易に想像できます。

  

明和7年 (1770)の夏は全国的に降水量が少なく大旱魃 (かんばつ)となりました。姫路藩領でも広範囲で作物が育たず、8月の時点で被害は12万石余にも及びそうだと藩主が幕府に報告しています。この数値が確定となれば、藩の年貢収入がゼロになるのに等しいということですから、予想値とはいえ被害の甚大さが窺えます。そこで今回は、こうした災害時における姫路城の機能の一端を紹介します。

 

さて、8月号で紹介したように、姫路城は、姫路平野北部で砥堀 (とほり)の地峡を抜けた市川が形成する扇状地上に位置しています。地下には帯水層があるので、そこまで井戸を掘れば水が湧くのです。ところが、大旱魃では城下町の井戸が干上がることがありました。嘉永6年 (1853)の場合は、藩主の鷹が死ぬくらい異常高温が続いたといい、西二階町の井戸や船場 (せんば)川が干上がり、明和7年の大旱魃以来だと言われたそうです。80年前と同様、城下町の水不足、さらに船場川から引水している下流の村々もかなり深刻な状況だったとみられます。

 

 

《図1》船場川と勢隠堀

 

 

城の南西約2~3㎞のところには、安田井という用水路を利用する村々がありました【図1】。その水源となる船場川の河水払底で切羽詰まっていました。そこで村々は、姫路城の堀から水を分けてほしいと藩に願い出たのです。城の水堀の水源の一つが扇状地の湧水なので水位は下がっていたと想像されますが、重要な防御施設である水堀を涸らすことはなかったのでしょう。村びとはその水をあてにしたのです。

 

 

《写真1》勢隠堀と「姫岩」

 

《写真2》出土した暗渠 (東から)

 

《写真3》「鮟鱇口」とみられる取水口

 

 

藩は、彼らの願いを聞き届けました。旱魃被害は藩にとって税収減になりますから、他人事ではないのです。そこで家老は、「鮟鱇口」を開けて「勢隠(せがくし)堀」の水を船場川へ落とすことを担当役人に指示しました。「勢隠堀」は姫山の北側を巡る内堀の一部で【写真1】、「鮟鱇口」はその内堀にある取水口のことでしょう。勢隠門の南で内堀から西部中堀に通じる石組の暗渠が発掘されました【写真2】。これが「鮟鱇口」から続く暗渠とみられ【写真3】、口を開ければ、「勢隠堀」の水は暗渠を通って西部中堀へ、さらに船場川へ落ちます。

 

 

《写真4》水中に見える堤跡 (矢印 西から)

 

《写真5》 人が立っているのが堤跡

 

 

《写真6》大手脇内堀

 

しかし、「勢隠堀」の水にも限りはあります。そもそもこの堀は城の中核部を守る内堀の一部ですから、それにつながる大手門脇の堀の水が涸れるほど落とすことができない事情もあったのでしょう。発掘された暗渠の南側には、内堀の堀底には堤が東西に横断するように築かれていました。現在は堤の上部が削平されて水没しているため、もとの位置などがよくわかりませんでした。ところが、最近、姫路城クリーン作戦で水位を大きく下げてみたところ、堤の底部が残存していることがわかりました【写真4・5】。こうした状況から推測すると、水を落とした「勢隠堀」がたとえ空堀になったとしても、堤の南側の大手門脇の内堀には【写真6】、ある程度の水深は確保できたとみられます。

 

この時の給水がどれほど効果的だったかは不明です。その場しのぎの対処だったかもしれませんが、姫路城の水堀が旱魃という自然災害から村びとを守る機能を有していたことは間違いなさそうです。

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