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【ディープな姫路城】8月号「清水門の井戸屋形」

姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
第4回目となる8月号では、「清水門の井戸屋形」について驚きのお話をお届けします。

INDEX

1.

清水門の井戸屋形

姫路城にある建物はすべて江戸時代から残っているものだと思っている人がほとんどではないでしょうか。実は、建物のいくつかは昭和以降に復元されたものもあるのです。今回は復元された建物のうち、井戸屋形を紹介します。

 

 《写真1》

 

姫路城中曲輪の北西隅に清水門がありました。姫路城ループバスに乗り、姫山樹林の北側を廻わり (写真1)、清水門・文学館入口のバス停で降りると、すぐ目の前に城門跡の石垣と通称「三角池」があります。

 

 

《写真2》

 

 

その三角池のすぐ東に隣接して井戸屋形が建っています (写真2)。これは井戸に掛けられた上屋で、その下には井戸がありました。その井戸は「鷺の清水」と呼ばれ、清水門の由来となりました。そもそもこの井戸に上屋が掛けられた経緯については、次のような逸話がのこっています。姫路城主が本多政朝だった頃、彼と京の町人が茶の湯の話をしていると、使う水の優劣に話が及び、姫路と京の水で競うことになりました。町人自慢の柳の清水を運ばせて、鷺の清水と双方の水で茶を点てさせ、招いた茶人に評価させたのです。結果、優劣付け難いと評価され、京の名水にも劣らないことを政朝が喜んで、井戸に上屋を掛けて「鷺の井」と名付けたというのです。この由来が史実かどうかは別にして、姫路城下町は市川が形成する扇状地上に立地するため、井戸を掘れば水を得やすい土地であることは間違いありません。なかでも鷺の清水は良い水が豊富に湧いていたのでしょう。山野井町が清水門の西に隣接するのも、この一帯が地下水に恵まれた土地であることを示しています。

 

 

《図1》

 

 

図1は19世紀中ごろの清水門の図で、鷺の清水の井戸屋形も描かれています。現在は外門と内門、一部石垣が消失しているので枡形は残っていませんが、井戸屋形は枡形の中にありました。復元は、発掘調査で出土した遺構の平面規模をベースに、この図を参考に建物を建てました。

 

 

《写真3》

 

《写真4》

 

 

ただ、この図だけでは妻と棟の方向しかわからないので、詳細は姫路城内に残っている井郭櫓を参考にしています (写真3・4)。明治維新後、清水門も撤去され井戸屋形も失われましたが、姫路城三の丸跡に駐屯する陸軍兵士の生活用水の水源地として鷺の清水が利用されることになりました。天守西方の乾曲輪に設けられた配水池まで水を汲み上げ、そこから三の丸跡の兵舎に給水したのです。そして終戦後、陸軍がなくなると、今度は姫路市民の上水道の水源地となり、昭和50年代まで利用されたのでした。清水門の井戸屋形は、姫路城の建物の中ではあまり目立つことがありませんが、近代の姫路の町を支えた貴重な遺構でもあるのです。

 

この近くにある姫路文学館には、姫路城が出来るまでの歴史を説明する常設展示もありますので、是非足を伸ばしてみてください。

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