書寫山圓教寺の各所解説文①
解説文は観光庁令和2年度地域観光資源の多言語解説整備支援事業によって作成したものです。
INDEX
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三十三所堂
この奥ゆかしさのあるお堂には、すべての生きとし生きるものを救いに導くことを誓った、慈悲の菩薩である観音菩薩像の33のお姿の像が納められている。このお堂は千年以上に渡る巡礼路「西国三十三観音巡礼地」(西国三十三所)の縮小版として重要な役割を果たしている。圓教寺は、西国三十三所の27番目のお寺で、この巡礼路の総距離は1,000キロメートルにも及び、7つの県にまたがっている。
西国三十三観音巡礼は8世紀に成立したが、江戸時代(1603〜1867年)になってようやく広く知られるようになった。法華経の一節によると、観音菩薩に救済を求めることで、誰もが大きな困難を乗り越えられ、三十三観音すべてを巡礼した人は、悟りが保障されている極楽浄土に生まれ変わるための功徳を蓄積できると言われている。浄土信仰は江戸時代に特に広まり、巡礼は旅行の口実になったのである。
しかし、巡礼の道のりは長く、困難を伴い、伝統的に徒歩で行われた。しかし江戸時代は地方間の行き来は厳しく制限されていた。早い時期から、このような旅行の難しさにより、進取的な僧侶たちが、数十箇所の離れた場所を巡礼する代わりに、巡礼者たちが一箇所で三十三観音、もしくはその一部を訪れることができる場所である「写し霊場」をつくるために努力した。巡礼者たちは圓教寺にやって来れば、三十三観音をすべて拝み、巡礼全体を効率的に終えることができ、浄土で生まれ変われるための功徳を享受できたのであった。
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湯屋橋
湯屋橋は17世紀初頭、ドラマにあふれた世の中および政局不安定な時代の終わりに建てられた。16世紀最後の数十年間は、戦争の影が圓教寺を混乱に陥れた。湯屋橋は今日、寺院の再建の象徴として存在している。
15世紀後半までに、圓教寺は多くの特徴的な建物と大きな経済力を有した複合施設に成長した。しかし、この寺院は戦国時代(1467〜1603年)に急激な衰退を迎えた。戦国時代にはさまざまな勢力が突然の権力の空白を埋めるために戦ったため、広範な軍事紛争が勃発した。1578年、武将の豊臣秀吉(1537–1598; 当時は羽柴秀吉)が圓教寺に入り、占領し、寺院の複合施設を山の要塞に変え、秀吉軍の約2万人の兵隊を配置した。この間、兵士たちは僧侶たちを恐怖に陥れ、建物や仏教遺物を破壊した。
圓教寺の運命は、本多忠政(1575-1631)が姫路城の新城主となったときから上向き始めた。忠政は荒廃した寺院の状態に衝撃を受け、以前の栄光を取り戻すために資金を募った。湯屋橋はこの復興期に建てられた。それから3世紀後の1944年に、元の青銅の擬宝珠は戦時供出された。1955年には、新しい擬宝珠が本多忠政を称える碑文を刻んで鋳造された。
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石造笠塔婆
この石造笠塔婆は、無量光仏である阿弥陀如来の浮き彫りで飾られている。阿弥陀如来は日本における最大の仏教信仰の一つである極楽浄土信仰の中心の仏様である。その教えは無限の輪廻転生からすべての生き物を救うことを誓っている。彫刻の阿弥陀様は蓮の花に座った姿で描かれている。それは、泥だらけの濁った池から蓮が成長するように、衆生が霊的修行を通じて存在を超越する力を象徴している。
石造笠塔婆は、その形状からそれが作られた時期を伝えている。13世紀に禅宗の建築様式が中国から伝わった後、日本で好まれた大陸起源のデザインの特徴である凹みの浮彫の外側の境が花頭形に彫られている。柱の緩やかに反った「傘」の美しい細部は、鎌倉時代(1185〜1333)の特徴である。上部の涙のしずくのような形の石は、如意輪観音に抱かれた希望に満ちた宝珠を表している。
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護法石(弁慶のお手玉)
この二つの苔で覆われた岩には2つの伝説がある。最初の伝説によると、不動明王と毘沙門天の子供の姿の化身である乙天と若天は、圓教寺の開祖性空上人(910-1007)が966年に最初に書寫山に到着したときに天からこれらの石の上に降り立った。乙天と若天は性空上人の初期の修行を助けた。乙天と若天は、護法善神(サンスクリット語:ダルマパーラ)、または仏教の教えの獰猛な守護神として知られ、二つの石はこの伝説から、「ダルマパーラの石」と呼ばれるようになった。彼らは圓教寺の守り神として、千年以上に渡って、お寺の伝説や伝統に登場してきた。
これら二つの石は、伝説的僧兵である武蔵坊弁慶にちなんで、「弁慶のお手玉」としても知られている。弁慶に関しては多くの伝説や逸話が残されているが、彼は少年時代、圓教寺で修業したことが知られており、この歴史的事実が多くの物語を作り出した。伝説によると、若い時、弁慶は二つの岩でお手玉をして自分の力を試した。ほかの話では、弁慶が仲間に嘲笑されたときに起きた争いについて伝えている。弁慶の激烈な報復は、1331年に圓教寺の主要な建物を焼き尽くした大惨事を引き起こしたと言われている。
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瑞光院
瑞光院は圓教寺内の塔頭六院の1つである。歴史的に、それぞれの塔頭は、通常はカリスマ的な住職と特定の経典や仏に焦点を当てた個別の一連の修行や教えを中心とした檀家によってより幅広く圓教寺の共同体を支えている。瑞光院の歴史についてはほとんど知られていないが、寺院の門の近くにある額には、訪れる巡礼者のための宿坊としての役割が記されている。今日、この塔頭はその美しい風景で有名である。瑞光院の素朴な土の外壁と秋の鮮やかな紅葉は、結婚写真撮影にピッタリな背景になっている。瑞光院の真向かいには、大黒天が納められた小さな神社があり、大黒天は神仏習合の考えにおける健康、農民、食、そして幸運の神である。近くには、姫路市で生まれた有名な歌人、初井しずゑ(1900〜1976)を称える詩石がある。
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弁慶鏡井戸
武蔵坊弁慶(1155–1189)は僧兵であり、若くして圓教寺で修行した。その超人的な強さと忠誠心で有名な弁慶は、多くの伝説や舞台のほか、現代のアニメやマンガでも英雄的な人物として登場している。彼はしばしば勇気と忠誠の典型として表現されているが、弁慶はまた、短気で暴力的傾向があることでも知られている。
彼のあまり他人に媚びへつらわない性格は、弁慶のいくつかの劇的な物語を作り出しており、その一つである圓教寺を舞台にしたある物語は、この鏡井戸に関係している。言い伝えによると、信濃坊戒円という若い僧侶が燭台の炭を使って、弁慶が寝ている間に顔にいたずら書きした。弁慶が目を覚ましたとき、若い僧侶たちが彼のことをあざけり笑っている姿を目にした。弁慶はこの井戸に走って水に映った自分の姿を見た。戒円が弁慶の顔を古い下駄の裏と比較したことに激怒した弁慶は、寺院の建物の大部分を激しく破壊し始めた。この荒唐無稽な話を裏付ける信頼できる歴史的証拠はないが、この事件は圓教寺の最も重要ないくつかの建物を灰にした大火災の原因になったと言われている。
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白山権現
この白山権現という山の神の神社は、圓教寺が建立される前から何世紀にもわたって崇められてきた場所にある。日本の神話時代を描いた8世紀の古事記によると、偉大な神、素戔嗚尊が出雲に向かう途中、この山に立ち寄った。彼の姉は太陽の女神天照大神で、彼はその大和民族の開祖を軽んじたために追放されたのである。その後、山は素戔嗚尊の住まい(岩倉)として崇拝されるようになり、圓教寺が建立されるずっと以前、山には行者や聖人が訪れた。実際、「書寫山」という名前は、「素戔嗚山」の日本語の発音から発展したものだと考えられる。
966年に開祖である性空上人(910–1007)が書寫山に到着してまもなく、性空上人は修行に没頭したいと願い、そして最終的にこの場所で悟りを開いたと言われている。また、性空上人が天女の姿を奇跡的に目の当たりにして、如意輪観音像を彫り、それを守るために摩尼殿を建てたのもここであったと考えられている。白山権現神社の縁起の良い歴史と、素戔嗚尊と圓教寺の開祖とのつながりは、世代を越えて巡礼者の訪問の動機となってきた。今日でも、毎年1月18日に圓教寺で平和と五穀豊穣を願う修正会の儀式が行われている。神社で圓教寺の守護神である乙天と若天の仮面をつけた信者たちが乱舞し、松明を振るって、鍾を鳴らすのである。
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伝和泉式部歌塚塔
和泉式部(976-1036年頃)は宮廷女官で、平安時代(794-1185)の有名な文学者であった。和泉式部は特に、5-7-5-7-7の31音節からなる詩である和歌で知られている。この石造りの歌塚塔は、和泉式部を称え、彼女の最も有名な和歌の1つを残すために1233年に建立された。歌塚塔に刻まれた和歌は、1002年から1005年の間に詠まれたと考えられている。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月
この歌は、おなじみの詩的な比喩を用いて、苦しみと救いの関係を強調している。たとえば「月」は仏教の悟りの象徴であるが、性空上人自身の象徴でもある。この歌は、当時歌人にとって最高の栄誉である勅撰「拾遺和歌集」に収録された。
性空上人は和泉式部の歌に感動し、すぐに返歌を返した。
日は入りて月はまだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)
寺院の記録では、和泉式部は亡くなったとき、彼女が尊敬する性空上人から送られた衣を着ていたと言われている。
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金剛堂
金剛堂は、圓教寺の開祖性空上人(910–1007)にとって特別に重要な場所である。書写山で修行を始めたころ、性空上人はかつてこの場所にあった普賢院の塔頭に住んでいたと考えられている。普賢院に住んでいたときに、金剛薩埵菩薩(サンスクリット語:ヴァジュラサトヴァ)が性空上人を訪問された。金剛薩埵は、悟りへの揺るぎない願望を象徴し、天台宗では中心となっている仏である。金剛薩埵は伝えられるところによると、金剛界曼荼羅と退蔵界曼荼羅を表す神聖な印相(ムドラ)を性空上人に伝えたとされる。これら二つの曼荼羅は蜜教の修行の基本である形而上学的領域を表現している。
室町時代(1336年〜1572年)に、普賢院の茅葺きの仏殿がここに移されて、性空上人との奇跡的な出会いを記念するために金剛薩埵菩薩像が祀られた。建物の内部は、元々その像が安置されていた金色に輝くお堂が中心になっている。像は、現在は食堂の2階に展示されている。この像は、1359年に奈良の東大寺の仏師である康俊によって彫刻された。
1544年に金剛堂は改装された。当時の屋根は瓦葺で、天井にはさまざまなアジアの宗教的な神聖な事物や生き物が色鮮やかに描写されていた。その中には仏教ではしばしば悟りを表す2頭の龍が描かれている。天井の別の箇所には、半分鳥で半分人間の姿をした不死の迦陵頻伽(サンスクリット語:カラヴィンカ)が飛び、崇高な声で仏陀の教えを伝えている。
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薬師堂
薬師堂は圓教寺で最も古い建物である。1978年に建物の大規模な改修が行われたとき、奈良時代(710–794)の遺物が内部から発見された。これらの遺物の存在は、この場所が圓教寺の開祖である性空上人(910–1007)が966年に書寫山に到着する以前から宗教的な意味を持っていたことを示している。何世紀にもわたって、何度もの改築や増築が行われてきたため、、この建物の建築史を正確に追跡することは困難になっている。それにもかかわらず、大きな主柱と装飾的な屋根の梁は、それが大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる初期の大陸の寺院建築の様式に基づいていることを示している。
このお堂は「癒しの仏像」あるいは「医術の達人」として知られている薬師如来を安置していることから名づけられた。薬師如来は健康と癒しの仏様で、朝廷の人々に人気があった。6世紀に仏教が導入された後、崇拝の対象となった最初の仏様の1人であった。薬師如来崇拝は、仏教が一般庶民階級に人気を得て、多くの寺院がその像を祀るようになった8世紀に広まった。ほとんどの場合、薬師如来は薬瓶を左手に持って表現されている。ここ圓教寺の薬師堂の薬師如来像は、室町時代(1336〜1573年)に製作されたもので、圓教寺の食堂の2階に展示されている。
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十地院
十地院は元々開山堂の西側にある広大な敷地を占めていた。現在の場所は、書寫山で唯一瀬戸内海が望める塔頭である。十地院には慈悲の観音菩薩像が収められている。その名前の十地という言葉は、菩薩になるための52段階の最後の10段階を指している。
この建物は、大ヒットしたハリウッド映画『ラストサムライ』(2003)でトム・クルーズが撮影の合間の休憩に使用した。お寺の人々は「トムの家」と呼んだ。撮影中、トム・クルーズは毎日、神戸のホテルから専用ヘリコプターで圓教寺に通っていた。
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鐘楼
近代以前、時計が一般的ではなかった時代に、寺院の鐘は重要な役割を果たし、時間の共同指標となっていた。中国の計時慣行に従って、1日を12に分割する伝統的な寺院の鐘は通常2時間ごとに鳴らされた。また、鍾は新年のお祝い、お祭りなどの特別な日や、火災の発生など、危険を知らせる必要があるときにも鳴らされた。
圓教寺の鐘楼は傾斜したピラミッド型の台座の上にある。これは、袴を着用している人のシルエットに似た格好で袴造と呼ばれている。下から履く伝統的な服である袴で乗馬するときに着用する。基部のすぐ上にあるかみ合わせ支えの基礎は、構造の実質的な重量を均等に分散させ、周囲の露台を補助するように設計されている。瓦葺の屋根の軒下にも同様の組み合わせ支えが見られる。鐘楼内部の青銅製の鍾は、仏教の象徴である龍や蓮の花などで華やかに装飾されている。鐘は銘刻されていないが、そのスタイルの特徴は1324年頃に鋳造されたことを示唆しており、兵庫県で最も古く、日本で最も古い鐘の1つとなっている。鐘楼自体はおよそ1332年にさかのぼり、さらに初期の構造の再建と考えられている。鐘楼は国の重要文化財、鐘は兵庫県の文化財である。
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法華堂
法華堂は、東アジア全域で広く崇拝されている大乗仏教の中心的教科書である法華経にちなんで名付けられた。堂の御本尊は、金色に輝く正しい行いの菩薩である普賢菩薩(サンスクリット語:サマンタブハドラ)である。普賢菩薩は典型的な瞑想姿で蓮の花の上にお座りになって表現され、手に蓮の花を持ち、精巧な青銅の冠をおかぶりになっている。基台の内部には狭い小部屋があり、その中には象の彫刻が置かれている。一般的に白象を伴う普賢菩薩の典型的な表現からの脱却をねらったのか、この彫刻は黒である。普賢菩薩の背後には光り輝く光背があり、光輪のように神聖な力の発散を象徴している。
お堂の格間格子天井は、普賢菩薩の御像の真上の空間が高くなっており、菩薩の重要性を表す象徴的な区分をなしている。天井から吊り下げられた金色の装飾は、インドのサンスクリット語のシッダム文字で書かれ、無限の光を表す阿弥陀如来の真言が刻まれている。現在の建物とそのご本尊は、江戸時代(1603〜1867年)のものである。
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本多家廟屋
これらの建造物は、徳川時代(1603〜1867年)に書寫山圓教寺を後援した武家の本多一族の墓である。姫路城の藩主になった2年後の1619年、本多忠政(1575–1631)は圓教寺を訪れた。そこで、当時軍司令官だった豊臣秀吉(1537–1598)の占領によって荒廃した寺院の様子を見て衝撃を受けた。忠政は寺院が昔の栄光を取り戻すための再建募金活動を開始した。そして忠政のおかげで、今なお非常に多くの圓教寺の中心的建造物が残っている。忠政の父・忠勝とその後継者3名が祀られている。 (この中で最も)長老の忠勝は、徳川幕府を開いた徳川家康(1543〜1616)が最も信頼した武将であった。
本多一族の5人の後継者たちはそれぞれ、同じ正方形の塔に囲まれた石造りの五輪塔に祀られている。ピラミッド型の大きなどっしりとした瓦屋根は、緩やかに上に反っていて、球形の頂華がのっている。5つの建物はすべて兵庫県の文化財に登録である。
敷地内にある2つの石塔は、忠政の息子である本多忠刻(ただとき)と孫の富樫幸千代の墓である。忠刻の石塔の後ろには、忠刻の死後に殉死した三人の武士の墓がある。殉死は主人の死後も続けて忠誠を誓うための行為で、自らの命を捧げるのである。
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榊原家墓所
この地は、江戸時代(1603年〜1867年)に姫路城の藩主を務めた大名榊原家の2人を祀っている。左側の石塔と石碑は、その人生最後の2年間、姫路藩主を務めた榊原政房(1641–1667)を祀っている。「故式部大輔侍従従四位下源朝臣」と石碑には彼の正式な階級と称号が刻まれている。「源」という名前が含まれていることは、政房と徳川家との家系上のつながりを表している。徳川家自体が、日本で最初の武士の棟梁であった源頼朝(1147–1199)からの家系であると主張していた。右の墓は榊原政佑(1705–1732)を祀っている。
二つの石碑は中国の伝説上の亀(亀趺:キフ)の上に立っており、その亀は努力と勤勉さの象徴である。それぞれの石碑の背後にある石塔には、サンスクリット語のシッダム文字で書かれた仏教宇宙論の5つの要素を表す文字が刻まれている。上から、「空」、「風」、「火」、「水」、「土」と読む。
この二つの記念碑は、後の姫路藩主榊原政岑(1715–1743)によって1734年頃に建立された。 政岑(まさみね)は金遣いが荒いことで知られていた。有名な吉原の遊女を落籍するために大枚をはたいた後、すぐに小さな藩に転封させられた。政岑は姫路の藩主として、毎年6月に開催される夏の浴衣祭を始めた。榊原家の子孫は今もお祭りに参加し、その後で先祖の墓参りをしている。墓地の前を飾っている多くの提灯は、かつて榊原家の家臣であった家族の子孫が、この期間に訪問し寄贈したものである。
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松平家墓所
この墓地は、姫路城の名ばかりの9代目藩主の松平直基(1604–1648)を祀っている。直基は、1648年に姫路藩の藩主に任命されたが、遥か東北の山形県の旧藩から姫路への移動中に亡くなってしまった。家督は息子の直矩(1642-1695)が継いだ。直基は神奈川県の最乗寺に埋葬されていたが、1670年に短い在任期間ではあったものの、姫路藩主としてここに墓所が直矩によって移され、建立された。江戸時代(1603-1867)、藩主は将軍によって決められ認証されたが、幕府は大名の治める地域への影響を制限し、武装蜂起を防ぐために、大名を頻繁に入れ替え、異なる地域へ移封させた。直基と直矩はともに、何度も藩の変更を余儀なくされた。二人の経歴から「ひっこし大名」のあだ名をつけられた。
壁に囲まれた中央にある仏塔には、仏教宇宙論の5つの要素を表す漢字が刻まれている。上から「空」、「風」、「火」、「水」、「土」と書かれている。一番下の「土」の文字の周りには、直基死後の戒名と彼のさまざまな称号や階級が刻まれている。
周りの石の壁は何世紀も経ているので、一部壊れており、最前部のみが17世紀の壁の外観を保っている。霊廟の向こう側の壁は、元の石を使用して再建されたが、 本来は均一な高さであった。
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十妙院
十妙院は、16歳の若さで亡くなった娘を祀るために、大名赤松満祐(1381 – 1441)から委託された寺院である。十妙院の本尊は、慈悲の千手観音像である。お像は比較的大きく、満祐の娘の等身大に作られたと考えられている。観音像は両脇に四天王の一人である鎧姿の毘沙門天と、来世に子供たちを守護する地蔵菩薩を従えている。塔頭寺院の中央の部屋の三枚の襖には有名な狩野派の創設者の孫である狩野永納吉信(1631–1697)の美しく保存された水墨画が描かれている。
この塔頭の客殿は1691年に建てられた。その構造は、客殿と台所として機能していた建物である「くり」を組み合わせたものだが、2つのエリアは厳密に分離されていた。外門の波打った庇と、書院造の部屋の絶妙なデザインは、それが位の高い賓客のために意図されていたことを示している。満祐の娘の死の物語は、中世日本の歴史の激動の時代を物語っている。15世紀の前半、この地域は独裁的な将軍足利義教(1397–1441)によって支配されていた。裏切りを恐れた義教は自分に近かった武士たちや当時複数の藩を支配していた赤松満祐をはじめとする側近の暗殺を企てた。満祐の娘は将軍の館に居候していたときに陰謀を知り、父親に警戒するように伝えた。しかし、義教は満祐の娘によるその行動を知り、彼女の殺害を命じた。満祐は娘の悲劇的な犠牲のおかげで、先制攻撃をすることができた。1441年の夏に京都で行われた能上演の場で暴君義教を暗殺した。
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壽量院
壽量院は最も重要な塔頭寺院と考えられている。1174年に後白河法皇(1127–1192)が圓教寺に1週間にわたって参籠されたという特別な格式を誇っている。現在の構造は古典的な寝殿造りと初期の書院造りを調和させた建築様式である。書院造は、床の間、違い棚、内部の襖仕切り、畳の間が典型である。中央の仏殿には、悟りを保証してくださる極楽が描かれた当麻曼荼羅の模写が飾られている。
玄関広間と唐破風を備えた切妻屋根の優雅な門は、壽量院の居住部分と、台所を設けた庫裏の部分とに分けられている。一つの部屋には書寫山で有名ないろいろな形の鮮やかな朱色の書写塗の漆器が展示されている。現在壽量院は結婚式やほかのプライベートな行事にも利用されている。予約すると、書写塗りの漆器に盛られた伝統的な精進料理を楽しむことが可能である。
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仁王門と金剛力士像
仁王門は圓教寺の正面玄関である。書寫山の東端にあるメインルートの終点に位置し、寺院の神聖な領域と外の俗世の間の象徴的な分かれ目を示しています。仁王門は間口三間幅、奥行き二間(三間一戸の八脚門)、古典的な建築様式である。外側から眺めると、瓦葺き屋根には中央に一層の大屋根が見られる。しかし参拝者は、その下から、2つの三角錐の補助屋根が隠れているのを見ることができる。この独特な設計は「三棟造り」と呼ばれ、東大寺や法隆寺など、日本最古の寺院のいくつかにだけ見られる様式である。
門の両側には二つの部屋がある。それらの中には、右に那羅延金剛像(ならえんこんごう)、左に密迹金剛像(みっしゃくこんごう)が安置されている。これらの金剛力士像は、筋肉隆々激しい表情で、仏法を守護し、外敵を追い払うために十分な大きさである。この二体の像は、「阿」と「吽」と呼ばれている。その由来は、サンスクリット語のアルファベットの最初と最後の文字に由来している。ちょうど古代ギリシャ語のアルファとオメガの概念の如く、「始まりと終わり」を意味し、普遍性と全能性を象徴している。また「金剛力士」としても知られ、この善の神が東南アジアのお寺の門を守っている姿はよく見られる。
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五重塔跡
これらの礎石は、かつて圓教寺の境内に立っていたいくつかの歴史的な参詣図や絵巻物に描かれていた五重塔の最後の遺物であると考えられている。1331年に三つの堂を焼き尽くした火災は、大講堂の近くの塔への落雷から始まったと記録されている。その塔には、金剛界曼荼羅の5つの仏像が刻まれており、一方こちらの塔には胎蔵界曼荼羅の5つの仏像が刻まれていたと考えられている。この慣習は、密教の天台宗と真言宗では一般的であり、五重塔は重要な儀式の場所としても利用されていた。
仏教においては、塔は歴史的なお釈迦様や他の聖人のお骨を納める聖骨箱から派生したものあった。そのようなお骨は仏舎利(サンスクリット:サリラ)と呼ばれ、有名な僧侶や尼僧の遺体を火葬したときに水晶のような状態で残る。塔は、国、時代、仏教宗派によってさまざまな形式で建築されているが、日本では3〜5層で、塔の上には9段の青銅製の相輪が乗っている 文化的には、塔は、宇宙の中心にある神聖な山である須弥山(しゅみせん)を象徴していると考えられている。
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文殊堂跡
文殊堂跡は、書寫山圓教寺の開祖性空上人(910–1007)と智慧の神である文殊菩薩(サンスクリット語:マンジュシュリ)の化身との奇跡的な出会いの場所であると考えられている。伝説によると、966年、性空上人は、 九州で隠者として暮らし、法華経を読誦した数十年後、都の京都へ旅した。その後、播磨国(現在の兵庫県)に入った後、性空はこの山に浮かぶ神秘的な紫色の雲に気づいた。性空は書寫山の西坂に登ったとき、老いた白髪の僧侶と出会った。僧侶は書寫山の起源と歴史について性空に教え、山が霊鷲山からの土を安置していることを明らかにした。霊鷲山は古代インドで釈迦牟尼仏が最初に法華経を説いた場所である。性空が書寫山に住みたい願いを伝えると、その老人は文殊菩薩の化身であると正体を明かし、跡形もなく姿を消した。
もともとこの場所にあったお堂は、文殊菩薩にちなんで名づけられたもので、かつては文殊菩薩像が本尊であった。しかし現在のお堂は、1987年に焼失した後に立てられたものである。
お堂の前には小さな石の彫刻や仏塔が集まっている。真紅のよだれかけを掛けた子供の僧侶に似た彫刻は、地蔵菩薩である。日本各地で発見されている地蔵像は、生まれる前に亡くなった子供たちや、とても小さいときに亡くなった子供たちの魂を守護すると考えられている。お地蔵様が掛けになっているよだれかけは、子供を亡くした親によって寄贈されることが多い。(場合によっては手作りの場合もある。)